2011年3月11日14時46分頃。現代日本において未曽有の大災害が日本を襲いました。 それは三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近、深さ約24kmを震源とする地震。それに伴う10メートルを超える津波でした。
災害時における輸送手段の確保については、その災害の種類や規模によって大きくかわることとなる。そのため国や自治体は様々な想定の基に人員や資材調達のルート確保想定など、日本が災害を経験するたびにブラッシュアップしてきている。
そのような中、タクシーも重要な輸送手段の一つとして認知されており、各自治体と各地タクシー協会などは協定を結んでいたり、また保険会社などが独自に輸送協約を結んでいたりと、災害時のタクシーの役割は日に日に大きくなってきているといっても過言ではない。
先日もこのような記事が出ていた
国内初 災害時にタクシー配車→避難場所へ 支援が必要な高齢者を運ぶ実証実験【岡山】 | OHK 岡山放送
岡山市北区の高齢者の住宅で行われた、大雨による水害を想定した実証実験です。避難を呼びかける音声を聞いた男性は、あらかじめ設置された端末のボタンを押し、タクシーを手配、避難場所に向かいます。
引用元:OHK岡山放送
こういった取り組みはこれからも増えていくだろうし、増えていかねばならないであろう。
だが、単に協定を結んだ。やれ地域貢献だ、やれ自助だ共助が必要だー災害という緊急事態を想定した場合に、このように声高に叫んで自治体や団体同士で準備するだけでいいのだろうか?この手の話に出てこない大切な存在ー乗務員の存在ーが抜け落ちてしまっているような気がしてならない。
タクシーを「最後の輸送手段」という人もいる。私が聞いた話で、何か情報ソースがはある訳ではないが、東日本大震災当時、道路が寸断され、国による助けもままならない状態の時、とある会社のタクシーの車両が燃料が尽きるまで被災地から人を運び続け、最後は車を乗り捨てて避難した……そんな話を聞いた。
このような事例を見るに、まさにタクシーは「最後の輸送手段」と呼ぶにふさわしい活躍だったと思う。最大限の敬意と尊敬の念を抱かずにはいられない。
では、このような行動をしたのは会社からの指示があったからだろうか?それとも自治体からの要請だろうか?もちろんある程度の要請や会社からの指示などはあったかと思う。しかし自分の命もかかっているような極限の状態でそのような行為ができるのは、やはり乗務員さんの使命感や仕事に対する誇りなど、そういった「仕事を超えた思いや覚悟」がないと、とてもできないできない事なのではないかと思う。
逆を言えば、そのような想いがないと極限の状態で人はそうそう動けるものではないのだ。
例えば自衛隊やDMAT(災害派遣医療チーム)、DPAD(災害派遣精神医療チーム)など、最初から災害を想定した訓練などを行っているプロフェッショナルがいる。これらの人々は最初から災害を想定して多少なりとも訓練しており、普段から人の命を救うという使命を帯びて行動する。その行動は当然称賛されるに値する行為ではあるが、それは彼らの仕事の中に組み込まれたものであり、普段からの使命感や倫理観のみならず「職業としての矜持」といったものが最初からあるはずである。
翻ってタクシー乗務員はどうだ。もちろん普段から「命を運ぶ」大切なインフラの一つであり、その重要性は理解している人も多いだろう。しかしながらあくまで運送業の一つであり、運んでナンボの世界である。またサービス業としての立ち位置からも、求められるものが多くなってきている。そういった中での「乗務員としての矜持」というものもあるだろうが、それは上記の自衛隊や医者が持つような職業倫理に基づくものではないはずだ。もともとタクシー業とは平和を前提とした職業である。非日常を想定した行動は、もとより無いのである。
そのような世界に非日常の行動倫理を持ち込み、自分の生活も脅かされる可能性のある状態で、危険な業務を遂行しろというのは非常に無理があると思う。失礼ですらあると言えるだろう。そのような「協定」が、自治体と団体とで結ばれているのである。
ただタクシー会社の本音からすれば大切な乗務員にそのような危険な行為はさせられないと思っているはずだ。本来は協定すら結びたくないかもしれない。大切な社員である。普通の会社であれば、命の危険がある業務をやりなさい、とは言えるわけがないのである。では何がそうさせるのか、そうせざるを得なかったのか。それは自治体や世間の持つ「タクシー」という輸送機関に対する期待と、いざという時には民間の力を借りなければどうにもならない状態になる、という想定であり、最終的には地域で許可を受けて商売している会社、という逃げられない存在に対する圧力である。
だが裏を返せばそれだけタクシーに対する本気の期待の表れであり、この災害大国日本において、その役割を担うのは仕方のないことなのかもしれない。誰しもが災害に合う可能性があり、誰かが動かなければいけないのだ。その中にタクシーという存在を真っ先に思い浮かべてもらえるならば、それはそれで大きく大切な存在という事になる。
であるならば、乗務員に対する普段からのイメージや想いを、世間は改めるべきであり、お願いする国や自治体は、会社のみならず実際に行動する乗務員に対する敬意も発表するべきである。それこそがより多くの命を救う事になる可能性が高いといっても過言ではない。
何度も言うが、タクシー乗務員は、普段から命と人生を運ぶ大切なインフラである。おおよそ誰でもウェルカムな仕事ではあるが、誰でも続けられる仕事ではない。政令指定都市では試験を潜り抜ける必要もある。単に車でお客様を運ぶだけではない。技術があり、思いがあり、矜持がある。常に世間の評価に晒されており、さらに災害時には「最後の輸送機関」として期待されているのである。そこにはかつてセーフティーネットの一つとしての機能を期待されていた職業の面影は、もはや無いのである。
であるにもかかわらず、世間のイメージはいまだ前時代的なものが多いように感じる。運ちゃん、雲助(くもすけ)などの言い方は未だに聞く。これが親しみを込めた言い方である分にはまだいいが、必ずしもそうではない。残念ながら蔑称の意味の方が強い。このような言葉を吐く心理は理解できないが、その意味を考えるに、少なくともタクシー乗務員の社会的地位は自らのそれより低いと勘違いしている輩の言葉であると推測できる。そのような視野が狭く、勉強不足で情けない輩がいまだにいることは、本当に悲しいことだ。
もはやタクシー乗務員はこのような前時代的な存在ではない。そこを理解し、敬意を払う価値のある存在であると、世間はイメージを改めるべきである。その敬意こそが、いざという時に行動できる力になり、かれらの新たな職業倫理を作る。誇りを生む。やりがいを生み出すのだ。その世間の期待と想い無しに、彼ら彼女らは災害時に大きく活躍することはできないし、会社もそれをして欲しいと思わないだろう。